日本人のルーツは? 日本とイスラエルの関係? 出雲王朝と大和王朝の関係は? 常識を覆してしまうがゆえに歴史学者が語らない古代史の最前線を調査する。
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●失われた十支族の行方を追う
・アッシリアに連行された十支族が全て命脈を保ちえたかどうかは疑問の残るところで、アッシリアで支族としては消滅してしまったものもあるだろうと言います。
・他にも十支族の行方については、アフリカのエチオピアに一支族が入ったという話、イギリスのウェールズやアイルランドに入った支族もあると言われているそうです。
・では、日本に向ったイスラエルの支族はいたのか? ということですが、私が知りうる限りでは「いた」というのが有力のようです。その中で最も有力であろうと言われているのが、失われた十支族のうち三支族が東方に向った、とする説です。
・東方に向ったといっても、ひたすら日本を目指して、というのは考えにくく、バビロニアからアフガンのあたりに半ば定住した者もいれば、支那(古代中国)に入ってそのまま定住した支族もあるであろうと言われています。
・交通ルートとして有力視されているのが後世、シルク・ロードと呼ばれるルートであったと言われています。シルク・ロードは、絹の売買がされるようになる前は、ユダヤ商人の交易ルートの一つであったと言われています。
・ソロモンの時代、ソロモン艦隊(商船艦隊)がインドに行っていましたし、アフリカの海岸を自在に航行していたことも間違いないであろうといわれています。同様に陸にもイスラエルの商人がアジアに続く道をつくっていたようです。これが後のシルク・ロードとなったそうです。
・支那に入った支族は、後に秦の先祖になった、と言われています。支那(China)という言いかたは“秦”に由来しているそうです。日本にも大陸から来た渡来民に秦(ハタ)氏がいますが、これは秦が漢に滅ぼされた後、渡ってきた支族であると考えられているそうです。秦氏は九州の豊後(大分県)中心に勢力を築いたようで、後、畿内に進出し、京都に太秦(ウズマサ)という地名を残したと言われています。
・秦氏の渡来の話は、別の機会に紹介するかも知れないですが、ここで紹介しておきたいのは、それとは別の日本の古代史をつくったと言われる支族についての情報です。
・アッシリアに連行された十支族が全て命脈を保ちえたかどうかは疑問の残るところで、アッシリアで支族としては消滅してしまったものもあるだろうと言います。
・他にも十支族の行方については、アフリカのエチオピアに一支族が入ったという話、イギリスのウェールズやアイルランドに入った支族もあると言われているそうです。
・では、日本に向ったイスラエルの支族はいたのか? ということですが、私が知りうる限りでは「いた」というのが有力のようです。その中で最も有力であろうと言われているのが、失われた十支族のうち三支族が東方に向った、とする説です。
・東方に向ったといっても、ひたすら日本を目指して、というのは考えにくく、バビロニアからアフガンのあたりに半ば定住した者もいれば、支那(古代中国)に入ってそのまま定住した支族もあるであろうと言われています。
・交通ルートとして有力視されているのが後世、シルク・ロードと呼ばれるルートであったと言われています。シルク・ロードは、絹の売買がされるようになる前は、ユダヤ商人の交易ルートの一つであったと言われています。
・ソロモンの時代、ソロモン艦隊(商船艦隊)がインドに行っていましたし、アフリカの海岸を自在に航行していたことも間違いないであろうといわれています。同様に陸にもイスラエルの商人がアジアに続く道をつくっていたようです。これが後のシルク・ロードとなったそうです。
・支那に入った支族は、後に秦の先祖になった、と言われています。支那(China)という言いかたは“秦”に由来しているそうです。日本にも大陸から来た渡来民に秦(ハタ)氏がいますが、これは秦が漢に滅ぼされた後、渡ってきた支族であると考えられているそうです。秦氏は九州の豊後(大分県)中心に勢力を築いたようで、後、畿内に進出し、京都に太秦(ウズマサ)という地名を残したと言われています。
・秦氏の渡来の話は、別の機会に紹介するかも知れないですが、ここで紹介しておきたいのは、それとは別の日本の古代史をつくったと言われる支族についての情報です。
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日本の古代史で話題となるのが日本と古代イスラエルの関係です。その前に「失われた十支族」について簡単に見てゆきます。
●ソロモン王の死からイスラエルの滅亡まで
・支族とは、イスラエルを興した12の支族のことです。それぞれの支族はイスラエルの祖アブラハムの孫ヤコブの12人の息子が祖であるとされています。
・紀元前1000年頃にダビデ=ソロモンによって隆盛を極めた古代イスラエル王国は、ソロモン王の死後、二つの王国に分裂します。それが北イスラエル王国と南ユダ王国です。北イスラエルには十支族が従い、南ユダ王国にはユダ支族とベニヤミン支族が従ったといいます。
・北のイスラエル王国は、メソポタミア地方に興ったアッシリアの侵寇を受け続けて滅びます。この後に、「失われた十支族」と呼ばれる現象が起きます。
・アッシリアに敗れて、イスラエル人はアッシリアに奴隷として拉致され、その後全く消息を絶ちます。ですが、アッシリア自体が新興の(新)バビロニア帝国に滅ぼされてしまったため(BC772年)、十支族の消息は全くわからなくなってしまいました。
・一方のユダ王国も、新バビロニア帝国のネブカドネザル2世によって滅ぼされ(BC586年)、有名な「バビロン捕囚」が起きます。その後、バビロンに囚われていたイスラエル人は、バビロニアを滅ぼしたペルシャ帝国のキュロス大王によって解放されます。
・解放されたイスラエル人はカナンの地で細々と住み続けますが、やがてローマ帝国によって占領され、キリストの時代を迎えることになります。
・問題なのは、アッシリアに連行されて以後消えた「失われた十支族」です。この十支族のうちの何支族かが日本に渡来したのではないか?というのが、日本の古代史における「失われた十支族」の問題であり、その真偽が問われているにも関わらず、そこにはきわめて政治的な思惑が働き、またそれぞれの思想と感情が混在してしまっている問題でもあるのです。
●ソロモン王の死からイスラエルの滅亡まで
・支族とは、イスラエルを興した12の支族のことです。それぞれの支族はイスラエルの祖アブラハムの孫ヤコブの12人の息子が祖であるとされています。
・紀元前1000年頃にダビデ=ソロモンによって隆盛を極めた古代イスラエル王国は、ソロモン王の死後、二つの王国に分裂します。それが北イスラエル王国と南ユダ王国です。北イスラエルには十支族が従い、南ユダ王国にはユダ支族とベニヤミン支族が従ったといいます。
・北のイスラエル王国は、メソポタミア地方に興ったアッシリアの侵寇を受け続けて滅びます。この後に、「失われた十支族」と呼ばれる現象が起きます。
・アッシリアに敗れて、イスラエル人はアッシリアに奴隷として拉致され、その後全く消息を絶ちます。ですが、アッシリア自体が新興の(新)バビロニア帝国に滅ぼされてしまったため(BC772年)、十支族の消息は全くわからなくなってしまいました。
・一方のユダ王国も、新バビロニア帝国のネブカドネザル2世によって滅ぼされ(BC586年)、有名な「バビロン捕囚」が起きます。その後、バビロンに囚われていたイスラエル人は、バビロニアを滅ぼしたペルシャ帝国のキュロス大王によって解放されます。
・解放されたイスラエル人はカナンの地で細々と住み続けますが、やがてローマ帝国によって占領され、キリストの時代を迎えることになります。
・問題なのは、アッシリアに連行されて以後消えた「失われた十支族」です。この十支族のうちの何支族かが日本に渡来したのではないか?というのが、日本の古代史における「失われた十支族」の問題であり、その真偽が問われているにも関わらず、そこにはきわめて政治的な思惑が働き、またそれぞれの思想と感情が混在してしまっている問題でもあるのです。
●縄文文化=日本列島文化ではない。
・言語学的に言ってもポリネシアでは魚のことをイオとかイッアとかいい、日本のウオの古語はイオであったそうです。その他、言語学的特徴が日本語と似ていると言われています。
・先ほど紹介したバツアヌのエファテ島には「自分たちの先祖は日本から来た」という伝説が今なお残っているといいます。またペルーの原住民の間には「ナインラップ神伝説」というものが残っているそうです。
・ナインラップとは太平洋の彼方からやってきた神様で、王国を築いた後に「いつか私は必ず戻ってくる」と言い残して海へ去っていったと信じられているそうです。
・縄文文化は日本列島だけに限定された文化ではなく、北は日本湖を跨いで朝鮮半島から満州、沿海州に広がり、南は太平洋の諸島から南米までに拡がる世界最古の文化・文明であったらしいのです。(縄文文化の中心が日本列島にあったことも間違いないそうなのですが。)彼等は羅針盤もない時代に、潮流を知悉し、星を観測してほとんど丸木舟に等しい舟で太平洋を自由に往来していたらしいのです。
・青森県の三内丸山遺跡を見ても、縄文文化の凄さを実感することができるといいます。日本は木の文化の国であるためその遺跡が残りにくいのですが、黒曜石やヒスイの分布から日本中で交易が行なわれていたことが確認されていて、その交易は海をも渡って行なわれていたといわれています。
・日本は、半島経由で大陸文化が伝えられた弥生時代から初めて発展したのではなく、太平洋を股にかけた大民族であった、というのが真相のようなのです。縄文文化は1万8000年前に始まった最古の世界文化であったとみるのが自然な見解であるらしいのですが、それを真摯に認めることも、また公に発言することも憚られているのが現状のようなのです。
・言語学的に言ってもポリネシアでは魚のことをイオとかイッアとかいい、日本のウオの古語はイオであったそうです。その他、言語学的特徴が日本語と似ていると言われています。
・先ほど紹介したバツアヌのエファテ島には「自分たちの先祖は日本から来た」という伝説が今なお残っているといいます。またペルーの原住民の間には「ナインラップ神伝説」というものが残っているそうです。
・ナインラップとは太平洋の彼方からやってきた神様で、王国を築いた後に「いつか私は必ず戻ってくる」と言い残して海へ去っていったと信じられているそうです。
・縄文文化は日本列島だけに限定された文化ではなく、北は日本湖を跨いで朝鮮半島から満州、沿海州に広がり、南は太平洋の諸島から南米までに拡がる世界最古の文化・文明であったらしいのです。(縄文文化の中心が日本列島にあったことも間違いないそうなのですが。)彼等は羅針盤もない時代に、潮流を知悉し、星を観測してほとんど丸木舟に等しい舟で太平洋を自由に往来していたらしいのです。
・青森県の三内丸山遺跡を見ても、縄文文化の凄さを実感することができるといいます。日本は木の文化の国であるためその遺跡が残りにくいのですが、黒曜石やヒスイの分布から日本中で交易が行なわれていたことが確認されていて、その交易は海をも渡って行なわれていたといわれています。
・日本は、半島経由で大陸文化が伝えられた弥生時代から初めて発展したのではなく、太平洋を股にかけた大民族であった、というのが真相のようなのです。縄文文化は1万8000年前に始まった最古の世界文化であったとみるのが自然な見解であるらしいのですが、それを真摯に認めることも、また公に発言することも憚られているのが現状のようなのです。
●大海洋民族としての縄文人
・南太平洋メラネシアのバヌアツ共和国エファテ島から、約5000年前に作られた縄文土器が発見されたのだという。この土器は青森県から出土する円筒土器とほぼ全く同じ種類の土器であったという。
・さらに驚いたことに、南米エクアドルの漁村バルディビアで1965年縄文土器が発見され、これはアメリカのスミソニアン研究所のエバンス博士夫妻によって、日本の縄文土器であるという発表がなされたというのです。
・時期は、バツアヌの縄文土器と同じころの、今から5000年前ぐらいのものであると言われています。
・バルディビアの遺跡発掘調査はまだ続けられており、土器片が見つかり続けているといいます。このバルディビアの縄文土器は、九州の有明海沿岸地域から出土した縄文土器と共通の文様を持っているそうです。
・このことから当時の縄文人は、我々が考えている以上にすぐれた航海術を持っていたのではないか、と言われています。
・ある歴史学者によれば、彼等は海流の動きと逆方向の反流の動きを熟知していたのであろうと言います。「反流」というのは、海流のある近くの島や珊瑚礁等の水深の浅い場所で、逆向きに起こる海流のことです。この反流に乗ればイースター島から南米へ渡ることも可能であると言うのです。
・赤道より北には北赤道海流があり、赤道付近には赤道海流があり、赤道より南には南赤道海流があります。いずれも海流の向きは東から西、即ち南米大陸からポリネシア、メラネシア方向に流れています。
・そして、この三つの海流に挟まれる海域には逆向きの赤道反流が二本あり、この反流に乗って南米に渡ったのであろうと言われています。
・私たちは縄文人と言うと、日本列島に限定された人々、と捉えがちですが、真相は異なり、太平洋を自在に往来する大海洋民族であったようなのです。
・南太平洋メラネシアのバヌアツ共和国エファテ島から、約5000年前に作られた縄文土器が発見されたのだという。この土器は青森県から出土する円筒土器とほぼ全く同じ種類の土器であったという。
・さらに驚いたことに、南米エクアドルの漁村バルディビアで1965年縄文土器が発見され、これはアメリカのスミソニアン研究所のエバンス博士夫妻によって、日本の縄文土器であるという発表がなされたというのです。
・時期は、バツアヌの縄文土器と同じころの、今から5000年前ぐらいのものであると言われています。
・バルディビアの遺跡発掘調査はまだ続けられており、土器片が見つかり続けているといいます。このバルディビアの縄文土器は、九州の有明海沿岸地域から出土した縄文土器と共通の文様を持っているそうです。
・このことから当時の縄文人は、我々が考えている以上にすぐれた航海術を持っていたのではないか、と言われています。
・ある歴史学者によれば、彼等は海流の動きと逆方向の反流の動きを熟知していたのであろうと言います。「反流」というのは、海流のある近くの島や珊瑚礁等の水深の浅い場所で、逆向きに起こる海流のことです。この反流に乗ればイースター島から南米へ渡ることも可能であると言うのです。
・赤道より北には北赤道海流があり、赤道付近には赤道海流があり、赤道より南には南赤道海流があります。いずれも海流の向きは東から西、即ち南米大陸からポリネシア、メラネシア方向に流れています。
・そして、この三つの海流に挟まれる海域には逆向きの赤道反流が二本あり、この反流に乗って南米に渡ったのであろうと言われています。
・私たちは縄文人と言うと、日本列島に限定された人々、と捉えがちですが、真相は異なり、太平洋を自在に往来する大海洋民族であったようなのです。
●縄文文化圏
・最近の研究によれば、縄文文化は北はロシアの沿海州まで広がっていたことが定説となっているようです。
・今から一万年前までは厳しい氷河期(ウルム期)であり、この時代は海の水深が浅く、千島列島からベーリング海峡までは地続きであったと考えられ、縄文人は陸伝いにアメリカ大陸、次いで南米にも移住していると言われています。
・遺伝子研究からも南北アメリカのインディオはモンゴロイド人種であると言われています。
・縄文文化を“日本(国)の”文化と限定せずに、一つの時代区分として考え、同じ文化圏を共有する人種を“縄文人”として捉えるならば、インディオも縄文人の末裔と言うことができます。
・また、氷河期においては、日本列島は朝鮮半島とも地続きだったのですから、半島人も縄文人の末裔である、と言えるようです。
・江戸時代の間宮林蔵の北地探査の記録がありますが、当時樺太(サハリン)とロシア沿海州の間の海は水深が一メートルほどしかなく、船を漕ぐのに大変な苦労としたことが記録されていると言います。
・百数十年前で、そのような状態だったのですから、氷河期には樺太と大陸が完全に陸続きであったことは間違いありません。
・結局、現在、日本海と呼ばれているものは当時日本湖とも言うべき巨大な湖だったのであり、この日本湖の周囲が全て縄文文化の土地であった、と言うことができるようです。
・それに、それだけではありません。最近の発見からは、縄文人は太平洋を舟で自在に漕ぎ回っていたことが明らかになって来たのです。
・最近の研究によれば、縄文文化は北はロシアの沿海州まで広がっていたことが定説となっているようです。
・今から一万年前までは厳しい氷河期(ウルム期)であり、この時代は海の水深が浅く、千島列島からベーリング海峡までは地続きであったと考えられ、縄文人は陸伝いにアメリカ大陸、次いで南米にも移住していると言われています。
・遺伝子研究からも南北アメリカのインディオはモンゴロイド人種であると言われています。
・縄文文化を“日本(国)の”文化と限定せずに、一つの時代区分として考え、同じ文化圏を共有する人種を“縄文人”として捉えるならば、インディオも縄文人の末裔と言うことができます。
・また、氷河期においては、日本列島は朝鮮半島とも地続きだったのですから、半島人も縄文人の末裔である、と言えるようです。
・江戸時代の間宮林蔵の北地探査の記録がありますが、当時樺太(サハリン)とロシア沿海州の間の海は水深が一メートルほどしかなく、船を漕ぐのに大変な苦労としたことが記録されていると言います。
・百数十年前で、そのような状態だったのですから、氷河期には樺太と大陸が完全に陸続きであったことは間違いありません。
・結局、現在、日本海と呼ばれているものは当時日本湖とも言うべき巨大な湖だったのであり、この日本湖の周囲が全て縄文文化の土地であった、と言うことができるようです。
・それに、それだけではありません。最近の発見からは、縄文人は太平洋を舟で自在に漕ぎ回っていたことが明らかになって来たのです。
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歴史(特に日本)には、まだまだ語られていない真相が沢山あります。どうして、皆そのことを語ろうとしないのか…?そんな小さな疑問と憤りから、このブログを立ち上げました。※なお、情報元については伏せさせていただきます。予めご了承ください。
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