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日本人のルーツは? 日本とイスラエルの関係? 出雲王朝と大和王朝の関係は? 常識を覆してしまうがゆえに歴史学者が語らない古代史の最前線を調査する。
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●大国主尊と少名彦名尊

・素戔嗚尊の後継者となる大国主尊の物語で、まず出てくるのが「稲羽(因幡)の白菟」の物語です。この物語の消息に関しては、素戔嗚が船団を率いて日本海を渡って来る際、一部の船が時化(シケ)に遭って隠岐の島に漂着したと言われています。その中に幼い大国主もいたそうです。大国主は2、30年隠岐の島に滞った後、因幡に渡ったのであろうと言われています。

・この大国主の時代に、イスラエルから第三の支族が渡来して来たと言います。それが少名彦名尊(スクナヒコナノミコト)です。記紀に「相並びてこの国作り堅めたまひき(『古事記』より)」と記されているように、素戔嗚の後の出雲王朝(出雲帝国)は、大国主を皇帝に、少名彦名を副帝というかたちで国を治めていたと言います。

・ところが、少名彦名は、すぐに「常世の国に度(ワタ)りたまひき(『古事記』)」とあるように姿を消してしまいます。この記述は何を意味しているのかと言うと、少名彦名の暗殺を意味しているのだそうです。少名彦名は海岸にいるところを突然拉致されて海に投(ホウ)り込まれたのだそうです。その屍体は大分県の国東半島の海岸に流れついたと言われています。国東半島には、少名彦名を祭神として祭る粟島神社があります。

・それ以前、素戔嗚はどうしたのかと言えば、やはり暗殺された、と言われています。その場所は出羽の湯殿山であったのだそうです。出羽三山は、修験道の有名なところですが、もともと修験道を開創したのは素戔嗚であったのだそうです。出羽三山の羽黒山には羽黒の修験道なるものがあり、「秋の峯入り」という行事が行われるそうですが、当時峯入りをした素戔嗚は、そこで暗殺された、と言われています。

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歴史(特に日本)には、まだまだ語られていない真相が沢山あります。どうして、皆そのことを語ろうとしないのか…?そんな小さな疑問と憤りから、このブログを立ち上げました。※なお、情報元については伏せさせていただきます。予めご了承ください。
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