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  <title type="text">歴史の真相──古代史最前線</title>
  <subtitle type="html">日本人のルーツは？　日本とイスラエルの関係？　出雲王朝と大和王朝の関係は？　常識を覆してしまうがゆえに歴史学者が語らない古代史の最前線を調査する。</subtitle>
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  <updated>2007-09-13T11:05:40+09:00</updated>
  <author><name>頼啓之</name></author>
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    <published>2008-07-17T21:05:53+09:00</published> 
    <updated>2008-07-17T21:05:53+09:00</updated> 
    <category term="未選択" label="未選択" />
    <title>イスラエルの民はどこから来たのか？</title>
    <content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="utf-8"> 
      <![CDATA[<span style="font-size:150%"><strong>●いわゆる「日ユ同祖論」の盲点</strong></span><br />
<br />
・以上、見て来たように日本の古代史にイスラエルの民が深く関係しているのは間違いないようです。では、現在の日本人の祖先はイスラエルか？というと、単純にそうであるとは言い切れないのだと言います。現在一般に流布しているイスラエル（あるいはユダヤ）が日本の祖であるとする「日ユ同祖論」には盲点があるのだと言います。あるいは意図的に盲点化させられています。<br />
<br />
・イスラエルの祖と言われるアブラハム（アブラム）は、紀元前１８００年頃の人物と言われているそうです。アブラハムはカナンの地（現在のイスラエル国家のある辺り）に辿り着く前に、メソポタミア地方のウルの町に住んでいた、と『旧約聖書』には記されています。<br />
<br />
・では、アブラハム以前の民はどこにいたのか？　あるいは、どこから来たのか？というのがこの話題の主題です。そして、古代をもっと遡った時に見えて来る全体像が、<br />
<strong>日本→イスラエル→日本</strong><br />
という流れなのだそうです。<br />
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            <name>頼啓之</name>
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    <published>2008-07-16T17:57:00+09:00</published> 
    <updated>2008-07-16T17:57:00+09:00</updated> 
    <category term="未選択" label="未選択" />
    <title>イスラエルから渡来した三支族？（４）</title>
    <content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="utf-8"> 
      <![CDATA[<span style="font-size:150%"><strong>●大国主尊と少名彦名尊</strong></span><br />
<br />
・素戔嗚尊の後継者となる大国主尊の物語で、まず出てくるのが「稲羽（因幡）の白菟」の物語です。この物語の消息に関しては、素戔嗚が船団を率いて日本海を渡って来る際、一部の船が時化（シケ）に遭って隠岐の島に漂着したと言われています。その中に幼い大国主もいたそうです。大国主は２、３０年隠岐の島に滞った後、因幡に渡ったのであろうと言われています。<br />
<br />
・この大国主の時代に、イスラエルから第三の支族が渡来して来たと言います。それが少名彦名尊（スクナヒコナノミコト）です。記紀に「相並びてこの国作り堅めたまひき（『古事記』より）」と記されているように、素戔嗚の後の出雲王朝（出雲帝国）は、大国主を皇帝に、少名彦名を副帝というかたちで国を治めていたと言います。<br />
<br />
・ところが、少名彦名は、すぐに「常世の国に度（ワタ）りたまひき（『古事記』）」とあるように姿を消してしまいます。この記述は何を意味しているのかと言うと、少名彦名の暗殺を意味しているのだそうです。少名彦名は海岸にいるところを突然拉致されて海に投（ホウ）り込まれたのだそうです。その屍体は大分県の国東半島の海岸に流れついたと言われています。国東半島には、少名彦名を祭神として祭る粟島神社があります。<br />
<br />
・それ以前、素戔嗚はどうしたのかと言えば、やはり暗殺された、と言われています。その場所は出羽の湯殿山であったのだそうです。出羽三山は、修験道の有名なところですが、もともと修験道を開創したのは素戔嗚であったのだそうです。出羽三山の羽黒山には羽黒の修験道なるものがあり、「秋の峯入り」という行事が行われるそうですが、当時峯入りをした素戔嗚は、そこで暗殺された、と言われています。<br />
<br />
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            <name>頼啓之</name>
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    <published>2008-07-15T14:42:46+09:00</published> 
    <updated>2008-07-15T14:42:46+09:00</updated> 
    <category term="日本と古代イスラエル" label="日本と古代イスラエル" />
    <title>イスラエルから渡来した三支族？（３）</title>
    <content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="utf-8"> 
      <![CDATA[<span style="font-size:150%"><strong>●素戔嗚の出雲上陸</strong></span><br />
<br />
・朝鮮天照との戦争に勝利した素戔嗚は、朝鮮国王大山津見より姉娘の石長姫と妹娘の木の花佐久夜姫（木花開耶姫）を和平のために送ったそうです。この話は『古事記』『日本書紀』では天孫降臨の主人公とされる邇々芸尊の話とされていますが、ここにも記紀の混乱・改竄がされている、と言われています。<br />
<br />
・この後、素戔嗚は軍団を率いて出雲に上陸します。対馬海流に乗れば、出雲は最も行き易い土地であると言います。更に海流に乗り続けると能登に着くそうです。<br />
<br />
・出雲に上陸した素戔嗚尊は、有名な「八俣大蛇退治」を行います。この話の歴史的な意味は、出雲の鉄を手中に収めたことにあると言われています。出雲の肥の川流域は、上質の砂鉄が採れる当時最大の鉄の産地であったそうです。<br />
<br />
・素戔嗚の最大の武器は鉄と馬であったと言われています。素戔嗚は、「建速素戔嗚尊（タケハヤスサノヲノミコト）」という名を持つそうです。建は「武」、速は馬を暗示している、と言われています。<br />
<br />
・素戔嗚は日本渡来の際、大量の馬をもちこんだのではないかと言われています。素戔嗚の騎馬軍団が疾風の如き速さで日本全土を席巻していった、と言われています。<br />
<br />
・大和を日本で最初に支配したのは大和朝廷ではなかったと言います。素戔嗚が大和に副都を置いて（首都は出雲）、そこの長官に長男の饒速日（ニギハヤヒ）を据えた、と言われています。記紀の中では大歳命（オオトシノミコト）として記載されているそうです。<br />
<br />
<span style="font-size:150%"><strong>●天照大神は卑弥呼だった？</strong></span><br />
<br />
・素戔嗚は九州にも進出したそうです。その九州を当時支配していたのが天照大神だったのだそうです。この天照大神は「日霊女（ヒミコ）」つまり卑弥呼なのだそうです。<br />
<br />
・記紀には天の安河を挟んで素戔嗚と天照が対峙する記述がありますが、これには二重の意味があるそうです。一つの天の安河は朝鮮海峡で、これは朝鮮天照との対峙を描いたもの、もう一つは豊の国（豊前・豊後）の山国川であると言われています。<br />
<br />
・この山国川以南が天照＝日霊女＝卑弥呼の領国であったと言われています。その都は宮崎県の西都（サイト）であったであろうと言われています。ここには有名な西都原古墳群があるそうです。<br />
<br />
・西都は、高千穂峰の近くにあり、高千穂峰は八幡神が初めて治めた土地であると言われています。日霊女は八幡の子孫であったのそうで、八幡から日霊女に至る系譜を「高千穂朝」と呼ぶのだそうです。<br />
<br />
・後年、日霊女は居所を南九州から大和へ移したのだそうです。邪馬台国に九州説と大和説がありますが、どちらも正しい、というのが真相のようです。ただし、本来の邪馬台国は南九州にあったであろうと言われています。<br />
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            <name>頼啓之</name>
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    <published>2008-07-10T13:17:34+09:00</published> 
    <updated>2008-07-10T13:17:34+09:00</updated> 
    <category term="日本と古代イスラエル" label="日本と古代イスラエル" />
    <title>イスラエルから渡来した三支族？（２）</title>
    <content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="utf-8"> 
      <![CDATA[<span style="font-size:150%"><strong>●第二の支族</strong></span><br />
<br />
・イスラエルの支族のうち第二番目に来たのは、紀元後二世紀にやはり半島経由でやってきた族長・素戔嗚尊（スサノオノミコト）率いる支族であると言われています。<br />
<br />
・記紀では、素戔嗚は天照大神、月読命の二貴神がそれぞれ統治する両国を命ぜられた後、「海原を統治せよ」と言われ、その統治する国が分らず、“八拳須心前（ヤツカヒゲムナサキ）に至るまで”泣いていたと書かれてあります。<br />
<br />
・また、その泣くさまは、青山が枯れるほど泣き枯らし、海河はことごとく泣き干した、と記されています。この記述は不思議な記述で、あまりに泣いたためその涙の水で枯れ山が青山となり、干上がっていた海河が滔々と流れるようになった、ならば分かりやすいのですが、内容は全く逆となっています。これも素戔嗚の出自に関係があるそうです。<br />
<br />
・スサノオのスサはバビロニアの町スーサから来ているそうです。スサノヲはバビロニアのスーサから来たイスラエルの族長であったようなのです。“八拳須心前に至る”という表現もバビロニア人の風俗を表しているそうです。<br />
<br />
・バビロニアであれば“青山は枯山なし”であり“河海はことごとく泣き乾しき”であろうと言います。バビロニアにもかつては蒼々とした山があったし、河川は満々と水を湛えていたわけですが、それが素戔嗚当時は、山は岩肌が剥き出しになり、河川の水も著しく減少し、多くの川は枯れ川になっていたのであろうと言います。海原を統治せよとの天命を受けた素戔嗚がバビロニアの岩肌剥き出しの土地に生まれたために、命じられた国──海原──がどこにあるか分かるはずもなかった、ということのようです。<br />
<br />
・記紀によると、素戔嗚は「私は母の国、根の堅洲国に行きたい」と言い、根の堅洲国に行く前に、天照大神の領国に挨拶に来た、驚いた天照は完全武装してこれを迎え「何のために我が国にやってきた」と叫んだ、と記されています。ですが、この天照は本当の天照ではなく、別の天照ではないのか、と言われているそうです。つまり二人の天照がいたらしいのですが、記紀ではあたかも一人の人物として記されているのだそうです。<br />
<br />
・本流の天照はこの時九州にあり、別の天照は南韓の地を統治していたのだそうです。もともと南韓は縄文人が住んでいた所だったのだそうです。後のいわゆる韓国人は半島の縄文人と北方から来たツングース系の民族の混血でできた人種ではないか、と考えられているそうです。<br />
<br />
・本流の天照は、八幡神の子孫であったそうで、高千穂峰を中腹まで下ったところに高千穂河原という松林に囲まれた小広い場所があり、そこは霧島神宮が当初置かれていた土地であったとされているそうですが、ここに八幡の宮殿があり、天照の宮殿もあったのであろうと言われています。<br />
<br />
・「何のために我が国にやってきた」と叫んだ天照は、南韓の天照で、素戔嗚は後のシルク・ロード経由で韓半島から日本へ渡ろうとしていたところ、南韓の天照の軍が立ち塞がったのであろうと言われています。素戔嗚の軍団は南鮮伽羅（伽耶）の都、高天原こと高霊（タカマ）に軍を進めた言います。<br />
<br />
・この都を守る南韓の天照は、どうやら記紀で後の天孫、邇々芸命（ニニギノミコト）の条で出てくる石長姫（イワナガヒメ）ではないかと言われているそうです。記紀の改竄疑惑は広く知られているそうですが、記紀の記事は混乱していると言います。あるいは混乱させられていると言います。石長姫は朝鮮国王である大山津見（オオヤマツミ）の姉娘です。<br />
<br />
・記紀によると、初め素戔嗚が剣を石長天照に渡し、それを石長天照が三つに折り、三つに折った剣に息を吹きかけるとそこから三人の姫が生まれ、今度は石長天照が素戔嗚に渡した球から五人の男子が生まれたと記されています。一読して、すぐには理解できない条ですが、当時、二国が接衝する時、君主の持ち物を互いに相手に与えることによって開始する儀式があったのではないかと言われています。<br />
<br />
・分かることは、素戔嗚から三人の姫が生まれ、石長天照から五人の息子が生まれたという記述です。ところが素戔嗚尊から生まれた三人の姫──多紀理姫、市寸島姫、多岐津姫──は石長天照とは無関係で、九州の本天照と素戔嗚の間に生まれた姫であったのだそうです。記紀を編纂した主導者は持統天皇と藤原不比等なのだそうですが、ここにも記紀の記事の混乱あるいは改竄が行われているといいます。<br />
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            <name>頼啓之</name>
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    <published>2008-07-09T15:28:10+09:00</published> 
    <updated>2008-07-09T15:28:10+09:00</updated> 
    <category term="日本と古代イスラエル" label="日本と古代イスラエル" />
    <title>イスラエルから渡来した三支族？</title>
    <content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="utf-8"> 
      <![CDATA[<span style="font-size:150%"><strong>●第一の支族</strong></span><br />
<br />
・西暦前３００年頃、現在のアフガニスタン近辺に留まっていた支族が族長に率いられて東進を開始したと言われています。彼等は朝鮮半島経由で八旒（リュウ）の旗を靡かせながら九州に渡来したそうです。族長の名は、日本で「八幡（ヤハタ・ハチマン）」と呼ばれたそうです。<br />
<br />
・日本の古代においては、神と言えば八幡神のことを意味したそうです。全国にある八幡社は四万とも五万とも言われています。<br />
<br />
・日本は八百萬の神の国であるといわれています。これは事実として、日本人の感覚は八百萬の神は畢竟一神に帰一しているそうです。この感覚があるからこそ仏教の仏もキリスト教の神も受け入れることができるのだそうです。その場合もその神だけを、他の神を排除して信仰することはしません。日本で一神即八百萬の神、八百萬即一神であるようです。この根底にあるのが八幡信仰であると言われています。<br />
<br />
・八幡神は縄文時代から弥生時代に移行して暫く経った頃に渡来し、縄文文化とイスラエルからもたした文化を融合させた人物であると言われています。<br />
<br />
・八幡社は日本中ほとんどどこへ行ってもあります。その全てが八幡神が実際に行った土地ではないようですが、八幡神が日本各地に行ったことは疑いないであろうと言われています。全国津々浦々に遍在する八幡神社はそのためであるそうです。<br />
<br />
・八幡神が国都に定めたのが九州の宇佐であったそうです。宇佐八幡は、後年、八幡社の総社となります。八幡神は宇佐を根拠地として各地に町を建設し、その地方の中心としたと言われています。<br />
<br />
・八幡の時代の遺物は恐らく弥生時代の遺跡の下に眠っているのではないかといわれています。八幡の時代につくられた町のあとに弥生時代の町がつくられたと思われるからだそうです。シュリーマンが掘り起こしたトロヤ遺跡も何層にもなっていたことが検証されています。トロヤ遺跡は下の方の層から発見されました。上の方の遺跡が見つかった段階で作業をやめてしまうと、八幡時代の遺跡は見つからないのだそうです。<br />
<br />
・記紀によると八幡神は四世紀後半の応神天皇として記されているそうですが、これは歴史の改竄であるといわれています。八幡神に関する記録は記紀からは抹殺されているそうです。<br />
<br />
・八幡神の遺跡として注目されているのが佐賀県の吉野ヶ里遺跡です。調査によると紀元前三世紀から紀元後三世紀ぐらいまで使われた町であるそうで吉野ヶ里が八幡神がつくった町であろうと言われれているのだそうです。<br />
<br />
・吉野ヶ里には「北内郭」「南内郭」とがあり「北内郭」は政事・祭事の中心、「南内郭」は生活の中心であったそうです。八幡の宮殿（兼神殿）からちょっと離れたところに小振りの高床式住居があるそうですが、これが八幡の私宅で、その傍らに竪穴住居があるそうです。普段の生活で高床式に住むことが許されたのは王とその家族だけだったようで、他の者は重臣も含め竪穴式住居に住んでいたのだそうです。<br />
<br />
<br />
<br />
]]> 
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            <name>頼啓之</name>
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    <published>2008-07-04T21:44:41+09:00</published> 
    <updated>2008-07-04T21:44:41+09:00</updated> 
    <category term="日本と古代イスラエル" label="日本と古代イスラエル" />
    <title>失われた十支族？（２）</title>
    <content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="utf-8"> 
      <![CDATA[<span style="font-size:150%"><strong>●失われた十支族の行方を追う</strong></span><br />
<br />
・アッシリアに連行された十支族が全て命脈を保ちえたかどうかは疑問の残るところで、アッシリアで支族としては消滅してしまったものもあるだろうと言います。<br />
<br />
・他にも十支族の行方については、アフリカのエチオピアに一支族が入ったという話、イギリスのウェールズやアイルランドに入った支族もあると言われているそうです。<br />
<br />
・では、日本に向ったイスラエルの支族はいたのか？　ということですが、私が知りうる限りでは「いた」というのが有力のようです。その中で最も有力であろうと言われているのが、失われた十支族のうち三支族が東方に向った、とする説です。<br />
<br />
・東方に向ったといっても、ひたすら日本を目指して、というのは考えにくく、バビロニアからアフガンのあたりに半ば定住した者もいれば、支那（古代中国）に入ってそのまま定住した支族もあるであろうと言われています。<br />
<br />
・交通ルートとして有力視されているのが後世、シルク・ロードと呼ばれるルートであったと言われています。シルク・ロードは、絹の売買がされるようになる前は、ユダヤ商人の交易ルートの一つであったと言われています。<br />
<br />
・ソロモンの時代、ソロモン艦隊（商船艦隊）がインドに行っていましたし、アフリカの海岸を自在に航行していたことも間違いないであろうといわれています。同様に陸にもイスラエルの商人がアジアに続く道をつくっていたようです。これが後のシルク・ロードとなったそうです。<br />
<br />
・支那に入った支族は、後に秦の先祖になった、と言われています。支那（China）という言いかたは“秦”に由来しているそうです。日本にも大陸から来た渡来民に秦（ハタ）氏がいますが、これは秦が漢に滅ぼされた後、渡ってきた支族であると考えられているそうです。秦氏は九州の豊後（大分県）中心に勢力を築いたようで、後、畿内に進出し、京都に太秦（ウズマサ）という地名を残したと言われています。<br />
<br />
・秦氏の渡来の話は、別の機会に紹介するかも知れないですが、ここで紹介しておきたいのは、それとは別の日本の古代史をつくったと言われる支族についての情報です。]]> 
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            <name>頼啓之</name>
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    <published>2008-07-04T14:54:02+09:00</published> 
    <updated>2008-07-04T14:54:02+09:00</updated> 
    <category term="日本と古代イスラエル" label="日本と古代イスラエル" />
    <title>失われた十支族？</title>
    <content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="utf-8"> 
      <![CDATA[日本の古代史で話題となるのが日本と古代イスラエルの関係です。その前に「失われた十支族」について簡単に見てゆきます。<br />
<br />
<span style="font-size:150%"><strong>●ソロモン王の死からイスラエルの滅亡まで</strong></span><br />
<br />
・支族とは、イスラエルを興した１２の支族のことです。それぞれの支族はイスラエルの祖アブラハムの孫ヤコブの１２人の息子が祖であるとされています。<br />
<br />
・紀元前１０００年頃にダビデ＝ソロモンによって隆盛を極めた古代イスラエル王国は、ソロモン王の死後、二つの王国に分裂します。それが北イスラエル王国と南ユダ王国です。北イスラエルには十支族が従い、南ユダ王国にはユダ支族とベニヤミン支族が従ったといいます。<br />
<br />
・北のイスラエル王国は、メソポタミア地方に興ったアッシリアの侵寇を受け続けて滅びます。この後に、「失われた十支族」と呼ばれる現象が起きます。<br />
<br />
・アッシリアに敗れて、イスラエル人はアッシリアに奴隷として拉致され、その後全く消息を絶ちます。ですが、アッシリア自体が新興の（新）バビロニア帝国に滅ぼされてしまったため（ＢＣ７７２年）、十支族の消息は全くわからなくなってしまいました。<br />
<br />
・一方のユダ王国も、新バビロニア帝国のネブカドネザル２世によって滅ぼされ（ＢＣ５８６年）、有名な「バビロン捕囚」が起きます。その後、バビロンに囚われていたイスラエル人は、バビロニアを滅ぼしたペルシャ帝国のキュロス大王によって解放されます。<br />
<br />
・解放されたイスラエル人はカナンの地で細々と住み続けますが、やがてローマ帝国によって占領され、キリストの時代を迎えることになります。<br />
<br />
・問題なのは、アッシリアに連行されて以後消えた「失われた十支族」です。この十支族のうちの何支族かが日本に渡来したのではないか？というのが、日本の古代史における「失われた十支族」の問題であり、その真偽が問われているにも関わらず、そこにはきわめて政治的な思惑が働き、またそれぞれの思想と感情が混在してしまっている問題でもあるのです。<br />
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            <name>頼啓之</name>
        </author>
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    <published>2008-07-03T10:26:32+09:00</published> 
    <updated>2008-07-03T10:26:32+09:00</updated> 
    <category term="縄文時代" label="縄文時代" />
    <title>縄文文化は世界最古の文化？</title>
    <content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="utf-8"> 
      <![CDATA[<strong>●縄文文化＝日本列島文化ではない。</strong><br />
<br />
・言語学的に言ってもポリネシアでは魚のことをイオとかイッアとかいい、日本のウオの古語はイオであったそうです。その他、言語学的特徴が日本語と似ていると言われています。<br />
<br />
・先ほど紹介したバツアヌのエファテ島には「自分たちの先祖は日本から来た」という伝説が今なお残っているといいます。またペルーの原住民の間には「ナインラップ神伝説」というものが残っているそうです。<br />
<br />
・ナインラップとは太平洋の彼方からやってきた神様で、王国を築いた後に「いつか私は必ず戻ってくる」と言い残して海へ去っていったと信じられているそうです。<br />
<br />
・縄文文化は日本列島だけに限定された文化ではなく、北は日本湖を跨いで朝鮮半島から満州、沿海州に広がり、南は太平洋の諸島から南米までに拡がる世界最古の文化・文明であったらしいのです。（縄文文化の中心が日本列島にあったことも間違いないそうなのですが。）彼等は羅針盤もない時代に、潮流を知悉し、星を観測してほとんど丸木舟に等しい舟で太平洋を自由に往来していたらしいのです。<br />
<br />
・青森県の三内丸山遺跡を見ても、縄文文化の凄さを実感することができるといいます。日本は木の文化の国であるためその遺跡が残りにくいのですが、黒曜石やヒスイの分布から日本中で交易が行なわれていたことが確認されていて、その交易は海をも渡って行なわれていたといわれています。<br />
<br />
・日本は、半島経由で大陸文化が伝えられた弥生時代から初めて発展したのではなく、太平洋を股にかけた大民族であった、というのが真相のようなのです。<strong>縄文文化は１万８０００年前に始まった最古の世界文化</strong>であったとみるのが自然な見解であるらしいのですが、それを真摯に認めることも、また公に発言することも憚られているのが現状のようなのです。]]> 
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            <name>頼啓之</name>
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    <published>2008-07-02T18:20:59+09:00</published> 
    <updated>2008-07-02T18:20:59+09:00</updated> 
    <category term="縄文時代" label="縄文時代" />
    <title>縄文人＝大海洋民族？</title>
    <content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="utf-8"> 
      <![CDATA[<span style="font-size:150%"><strong>●大海洋民族としての縄文人</strong></span><br />
<br />
・南太平洋メラネシアのバヌアツ共和国エファテ島から、約５０００年前に作られた縄文土器が発見されたのだという。この土器は青森県から出土する円筒土器とほぼ全く同じ種類の土器であったという。<br />
<br />
・さらに驚いたことに、南米エクアドルの漁村バルディビアで１９６５年縄文土器が発見され、これはアメリカのスミソニアン研究所のエバンス博士夫妻によって、日本の縄文土器であるという発表がなされたというのです。<br />
<br />
・時期は、バツアヌの縄文土器と同じころの、今から５０００年前ぐらいのものであると言われています。<br />
<br />
・バルディビアの遺跡発掘調査はまだ続けられており、土器片が見つかり続けているといいます。このバルディビアの縄文土器は、九州の有明海沿岸地域から出土した縄文土器と共通の文様を持っているそうです。<br />
<br />
・このことから当時の縄文人は、我々が考えている以上にすぐれた航海術を持っていたのではないか、と言われています。<br />
<br />
・ある歴史学者によれば、彼等は海流の動きと逆方向の反流の動きを熟知していたのであろうと言います。「反流」というのは、海流のある近くの島や珊瑚礁等の水深の浅い場所で、逆向きに起こる海流のことです。この反流に乗ればイースター島から南米へ渡ることも可能であると言うのです。<br />
<br />
・赤道より北には北赤道海流があり、赤道付近には赤道海流があり、赤道より南には南赤道海流があります。いずれも海流の向きは東から西、即ち南米大陸からポリネシア、メラネシア方向に流れています。<br />
<br />
・そして、この三つの海流に挟まれる海域には逆向きの赤道反流が二本あり、この反流に乗って南米に渡ったのであろうと言われています。<br />
<br />
・私たちは縄文人と言うと、日本列島に限定された人々、と捉えがちですが、真相は異なり、太平洋を自在に往来する大海洋民族であったようなのです。]]> 
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            <name>頼啓之</name>
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    <id>horoscope.blog.shinobi.jp://entry/3</id>
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    <published>2008-07-01T16:28:06+09:00</published> 
    <updated>2008-07-01T16:28:06+09:00</updated> 
    <category term="縄文時代" label="縄文時代" />
    <title>縄文時代？（２）</title>
    <content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="utf-8"> 
      <![CDATA[<span style="font-size:150%"><strong>●縄文文化圏</strong></span><br />
<br />
・最近の研究によれば、縄文文化は北はロシアの沿海州まで広がっていたことが定説となっているようです。<br />
<br />
・今から一万年前までは厳しい氷河期（ウルム期）であり、この時代は海の水深が浅く、千島列島からベーリング海峡までは地続きであったと考えられ、縄文人は陸伝いにアメリカ大陸、次いで南米にも移住していると言われています。<br />
<br />
・遺伝子研究からも南北アメリカのインディオはモンゴロイド人種であると言われています。<br />
<br />
・縄文文化を“日本（国）の”文化と限定せずに、一つの時代区分として考え、同じ文化圏を共有する人種を“縄文人”として捉えるならば、インディオも縄文人の末裔と言うことができます。<br />
<br />
・また、氷河期においては、日本列島は朝鮮半島とも地続きだったのですから、半島人も縄文人の末裔である、と言えるようです。<br />
<br />
・江戸時代の間宮林蔵の北地探査の記録がありますが、当時樺太（サハリン）とロシア沿海州の間の海は水深が一メートルほどしかなく、船を漕ぐのに大変な苦労としたことが記録されていると言います。<br />
<br />
・百数十年前で、そのような状態だったのですから、氷河期には樺太と大陸が完全に陸続きであったことは間違いありません。<br />
<br />
・結局、現在、日本海と呼ばれているものは当時日本湖とも言うべき巨大な湖だったのであり、この日本湖の周囲が全て縄文文化の土地であった、と言うことができるようです。<br />
<br />
・それに、それだけではありません。最近の発見からは、縄文人は太平洋を舟で自在に漕ぎ回っていたことが明らかになって来たのです。<br />
<br />
<br />
<br />
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            <name>頼啓之</name>
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